みなさま、、お久しぶりです。
早いものでもう8月。。。。皆様お元気でいますでしょうか?こちらのウェールズは、、もう秋です。(のようです。)寒がりの私は、寒くてたまりません。こんな感じでいたら、冬を越せるのか??と自分で心配になっています。(爆)
さて、、
今日は、第25回歴史教室「足利義満と勘合貿易」についてのまとめを、遅ればせながら書かせていただきます。
で、、、で、、でっかい、写真になってしまいました。。
さて、、斎藤先生の第1回目の質問です。
「この人は、室町幕府の第3将軍、足利義満です。
みなさん、、どういった印象をお持ちですか?」
どう思いますか??
わたしは、「なんだか、気の弱そうな人だなあーー」なんて思いました。
皆さんは、どうおもいます?
足利義満について、ちょっと調べてみました。
足利義満は、鎌倉幕府を倒し、また後醍醐天皇の南朝に反旗を翻して、北朝を立てたときの功労者足利尊氏の孫です。そして、長男ではなかったのですが、10歳の時に父の義詮が亡くなり将軍になったのです。
足利尊氏から始まったと思っていた室町幕府なんですが、室町幕府という名前は、足利義満が都の室町に花の御所を立てたことから来たそうです。それに、楠木正成をやぶり後醍醐天皇の南朝の天皇を追いやった後も、スムーズに幕府の体制が整ったわけではなかったんですわ。
歴史の事実だけをみていると、
「ああー後醍醐天皇が奈良の山奥に行って足利尊氏が幕府を立て室町時代になったよおーー」
と、ちゃんちゃん
と終わってしまいますが、北朝の天皇体制になっても勇断はならず、足利義詮の時にもまだまだ、戦っていたんですね。
というのも、幕府に不満がある武士というのは、南朝の味方になって幕府を倒そうとしたんですよ。それと同時に、南朝についた武士に不満があれば、北朝についたり、、時代はまだまだ混乱していたんです。
3代将軍義満も、小さい時からそういった戦いの中にいて、戦いから逃げて預けられ、守護大名の赤松則佑に育てられたリ、斯波義将に育てられたりしています。お父さんの義詮が亡くなってからは、細川頼之が義満の後見・教導になり細川頼之はのちに一時,康暦の政変という事件によりライバルに失脚させられますが、そのあと復活して戻ってきて死ぬまで義満を支え続けました。
ということでですね、
足利義満って、
「おじいさん(足利尊氏)が頑張って作った幕府を受け継いで、趣味の悪いぴっかぴかの金閣寺を作って、明と朝貢貿易をした、なーーんか、えげつない金持ちのボンボン」
というイメージがありましたが、この人の小さい時も、将軍になってからも結構熾烈な戦いがあって大変だったのですね。。。
そしてですね、21歳で権大納言となった義満が、宮中の故実作法や文化教養に通じなくてはならないということで、幕府では義満のために必要な礼儀作法を伝授できる人物を求めたのですが、そこで北朝4代の摂政、関白を務めた公卿の二条良基が抜擢されるのです。(自分から手を挙げたという話もありますが)ここから、2人の関係が始まります。
この二条良基という人は、なんと通算5回も北朝4代もの天皇の摂政となって働いた人で、なんとか幕府と北朝の朝廷がいい関係でいられるようにとお互いの利益にかなった関係だったのだと思います。
さて、、、義満の重大な功績として、
「南北朝合一」
があります。
第100代後小松天皇の時に、天皇が二人いる、、という不思議な「南北朝時代」を終わらせたのです。
(この不思議な時代、南北朝時代については、前回のブログで書きましたので、そちらを読んでくださいね。)
そして、、足利義満は、日本の商人たちに頼まれて日本の商業を発展させるために、元が滅びた後の明と貿易を始めようと考えました。
ここで、斎藤先生からの質問ですーー!!
ちっくたっく、
ちっくたっく、、
まあ、もうお分かりですね。
おぼえていますかーー?
中華冊封体制のことを。。
つまり、↑の答えのヒントは、「家来」という言葉がはいり、この体制のことを、中華冊封体制というのでした。
立て続けに質問です!!
皆さんなら、どうしますか??
授業では、意見が割れましたねーー。
歴史授業では、大人も子供も一緒に勉強しているのですが、こういう時にも、意見は大人、子供では割れないんです。子供の生徒さんが、大人顔負けの冷静な意見を述べるので毎回密かに感心しています。
性格もでますよね。。
わたしは、絶対にAにはなりたくないな。。とおもい、Bにするなと思いましたが、足利義満はAを選んで、明に遣明使を送ったんですよ。。ここで、ちょっと私が
「いらっ」
っとしたのはですね、
足利義満、、明の皇帝に手紙を出すときに、
「明の皇帝の家来である私、日本国王源からお手紙を差し上げます。」
と、自分のことを源氏の棟梁であるということで伝統ある「源」を名乗っているんですよ。(まあ、足利家は源氏の流れを汲んでいるのですが。。
でも、、「家来」って書いちゃうか????
「きききーーー」
いくら、日本を発展させるために貿易したいといっても、ここまでへりくだることないのではないか??と思うのですよね。
それに、、
「義満は若年の頃から明への憧憬を深く抱いていた」と、ウィキにかいてあるんですが、どうして、明にこんなにあこがれたんだろう。。っておもったんですよ。
そしたらですね、、正式に、明との勘合貿易が始まる前に、どうやら2回も遣使を派遣していますが、
どちらも断られているではないですか!!
なぜなら、
「明側は南朝の懐良を「日本国良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下との通交は認めない方針のため」
(常々、子供たちや、生徒さんにウィキだけを信じるなといっている私ですが、便利といえば便利ですね。ただ、なぬ?・と思った方はご自分でお調べください。私も大学の研究者ではないのでしっかり調べられません。ごめんなさい)
なのだそうですよ。
これで、なんとなく分かったんです。
足利義満の心の移り変わり(私の想像)
小さいころから、明をあこがれていた、、というよりも、
↓
「明と貿易をしたい」
↓
いくら偉くなったからといって、日本国の長として認められない
↓
くそーーくそおーー何が何でも、貿易してやるぜ(プライドなんていってられるかよ)
↓
へりくだり、明との勘合貿易に成功
↓
でも、やっぱり、天皇にならないとこの先また、こういったことがあったら困るぜ
↓
なら、なったるわ。
↓
ぜったいになったるわーーーーー
足利義満が生まれたのは、1358年で、勘合貿易が始まったのは、1401年
義満は43歳になっていました。
あの時代の43歳といえば、乗りに乗って絶好調で権力の頂点にいて、誰の影響もなしに決めたことだと思うのです。また、近くにいた側近も、私がちらっと調べた限りでは、明にめろめろの側近がいたようにもおもえず、義満の育ってきた環境も、そこまで明に影響を受けたとは思えなかったんです。
さてさて、、
次は倭寇のお話です。
明と貿易をするために、
「倭寇のとりしまり」
も約束するんです。
倭寇というのは、当時、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内部で活躍していた海賊のことで、これもどうして近なことを日本人がするようになったかを考えていくと長くなりそうなので調べませんでしたが、元寇によって経済的に苦しくなっていった人々が外に向かって出て行ったという説や、壱岐や対馬では元寇でのあまりの被害のために、復讐と意味もあったとか、また元寇の時のように襲われないようにしていた、、との色々な説があります。
また、初期の倭寇は確かに日本人だったようですが、後に中国人や朝鮮人が倭寇になりすまして船を襲っていたということです。↓
なんか、、倭寇のイメ――ジが。。。。。。こういった絵をみると、↑に書いたように、「経済的に苦しくなって襲っていた」というのに納得してしまうんですけど。。。
↓の写真は、倭寇の経路です。
そしてですね、
明と日本側が貿易をする時に、お役人さんたちが↑のお札を持っていて、二つ合わせて倭寇じゃないことを確認してから取引をしていたそうです。
遣明船をモデルにした真如堂縁起絵巻です。↓
お坊さんも乗っていたんですね。
貿易の無事を祈っていたのでしょうか。。
こうして始まった勘合貿易は大成功を収めました。
はい!
↑の図をみてわかるように、両国にとってもとてもいい貿易が成り立っていたようですね。
ところで、、( )の中に入るものはなんだかわかりますか??????
ちっくたっくちっったっく。。。
ーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーー
なんと!!銅銭だったんです。
当時日本は、まだ貨幣経済では成り立っていなかったようで、この時代に日本の貨幣経済は大きく発展したのです。
明との勘合貿易のおかげで経済的に豊かになり、商人たちが払う莫大なお礼によって、幕府も貿易で大きな利益を出しました。
この後義満がしたことは、、
はい。
金閣寺を建てたんです。
皆さまお気づきでご存じの通り、
1階は、貴族風(寝殿作り)
2階は、武家風
3階は、仏教風
となっていて、金閣寺という名前なのに、全部金じゃないんですね。
全面に黒漆を塗って、その上に金箔をはって、貴族も僧もすべて私の支配下にあるという意味らしいです。
私はこの金閣寺が趣味悪くあまり好きじゃないのですが、雪景色の中の金閣寺は素敵ですね。
さて、、斎藤先生からの最後の質問ですよーー
さて、、どれだったかわかりますか?
まあ、このながーい記事を読んでくださった方ならお判りでしょう。。
そうですよ。
こたえは、Aの「自分の息子を天皇にする」
ことだったのです。
義満は、
1.天皇にしか許されていない行事をやったり、(公式の儀式、位をさずけること)
2.天皇を金閣に招いた時、天皇と同じ洋服になり、並んですわったり、
3.次男,義嗣を皇室にしか許されない地位につかせ、「親王(次の天皇)」として扱わせたり、、
したんです。
でもですね、、ここまでぶいぶい権力をほしいままにしていた義満でしたが、流行病にかかってあっけなく死んでしまったのです。そして、義満がかわいがっていた息子の義嗣は第4代将軍になれませんでした。彼は、義満の次男で、足利義持という長男がいたからです。
4代目将軍足利義持は、明の属国になって朝貢外交をするということに反対で、天皇に成り代わるという案にもはんたいだったようで、将軍になったとたんに、明の家来であることはやめ、明と対等であるという日本の地位を元に戻したのです。
ああよかったですね。
よかったついでに、第4代将軍足利義持の写真も載せますわ。
なんか、、いいかんじなんですけど。。
まとめ
長くなりましたが、これで第25回歴史教室「足利義満と勘合貿易」の授業報告は終わります。
義満のこと悪く書いちゃったようですけど、まあ義満の
「イケイケゴーゴー―。なりふり構わず、金もうけ―」のおかげで、経済がよくなったんですし、
元寇ー内乱が続いた後で、なんといっても先立つものはお金だったのだから、しょうがなかったのかもしれないですよね。しかも、義満は、観世弥、世阿弥の芸能活動にも理解を示し保護をしていました。
確かに、世阿弥の美貌に惚れた、、男色で囲っていた、、などなどいろいろな話はありますが、義満が彼らの芸能活動を保護するまで、一般にかれら猿楽者の教養は低いものだったそうです。そして、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、(今日の記事の最初の方で書いた公卿の二条良基も、世阿弥達の活動を保護した一人だったそうですよ)、教養を身に着けて行ったとされています。だから、彼らの才能に気が付いて保護した義満はすごいなとも思うのですよ。
また、天皇の座を狙った唯一の男として、悪役になっていますが、
藤原道長や、平清盛など、自分の娘を天皇と結婚させて権力を握っていた人たちも過去にはいますので、いったん権力を握ってしまうと誰にでもそういう思いがうまれてくるのかもしれない。。なんて思いますし、
後の権力者で、徳川家康がそこまで思わなかったのは、実質的な権利を(たとえば、貿易する権利とか)もっていたから、わざわざ天皇になる必要がなかっただけなんじゃないかなーーって思いました。
これから始まるすばらしいいーー室町文化のことを考えると、
あくがあって、趣味悪いけど(金閣寺)(私の判断)
足利義満、、よくがんばってくれたじゃん!!
と思いました。
それでは、最後まで読んでくれた方!!長い記事を読んでくださり、どうもありがとうございました!!
次回の授業報告もお楽しみに!!(ペースアップして書きます。。すみません。 😳 )
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