自分のアイデンティテイのことなど、考えたこともなかった。学生の頃は、「自分はどんな使命をもって生まれてきたのだろう」とか、「何が自分にあっているのだろう」などとは考えたことはあるような気はするのだけど、自分はなにものか?ということはなかった。わたしは、父と母から生まれた「私」であって、「日本人」であるということは当たり前すぎるほど当たり前で、「グローバル人」「地球人」でありたい、、とさえも思っていなかった。そういったことを考えなくてもよい環境にいたといえばそれまでだし、深い思考を持つ人間でないといえばそうだな、、ともおもう。
そんな私が、アイデンティテイについて考えるようになったのは、自分の子供がアイデンティテイについてどう思っているのかな?と疑問に思ったことがきっかけだ。
彼らは、イギリス人と日本人の間に生まれ、生まれも育ちもイギリスだ。学校も地元の子供たちがいく普通の学校だし、母親が日本人でたまに日本人に会う、、くらいでしか日本との接点はない。
子どもというのは面白いもので、小さいうちは肌の色が違うだろうがなんだろうが、言葉さえ同じ言葉を話せば、お互い違いを意識することもない。周りの親や学校の先生の方が違いを意識していたと思う。
ということで、大きくなるにつれて、子供たちも違いを意識するようになる。それでも小さいころから育ってきているので同級生同士では違いを感じないみたいだけど、違う学年や全然知らない人からは「違い」を認識されてくる。
学校でいえば、長男が一番大変だったのだろうなと思う。ウェールズの片田舎でウェールズ語の学校に行かせた親(私と主人)だけど、、都会のようにいろいろな人種がいるようなところではなかったので、彼が一番彼自身のアイデンティテイを考えたと思う。その点、下の3人は長男がぶち開いてきた道を(学校の先生や周りの大人が慣れてきた)のんきに歩いているわけで、かれらも私の若い時と同じように、自分自身のアイデンティテイなぞ、考えていないのではないか?とおもう。まあ、末娘はそういうことを考えるのには早すぎる年だけど。
さて、アイデンティテイとはなにか?と言われれば、「自分とはなにか?という自己同一性、国や民族、自分の属している集団についての帰属意識」ということだけど、自分がなにものか?と悩むのは、
自分が自分だと思っていることを否定されたり、自分が属しているという集団、国に、自分が受け入れられないのではないか?と考え始めたり、そのような経験をする時ではないかと思う。
どちらかというと、日本で育ったハーフの人たちの方が、いろいろと考えるようだ。それはそうかも、、
最初の文章で、「子供は言葉さえ同じ言葉を話せば、違いをきにしない」と書いたけど、上の男の子は3,4歳から「外人」と言われて「自分は人と違うのか?」とずっとおもっていたという。
ハーフといっても、世界各国に何十万人もいるのだから場所や人の感じ方、育った環境によってもいろいろな考え、違った経験を持っている。
行きつくところは、「自分は自分」そして、自分に自信を持てることがアイデンティテイの確立なのかもしれない。人に何を言われてもゆるがない自身さえあれば、自分で自分の帰属、自分の立ち位置、自分自身が何者なのかを自分で決めることができる。
自分の祖先を考えてみて、自分の中の継続したつながり、文化のつながりを考え、その継続した物語の一部になることが心の安定につながるのではないか、そして、
アイデンティテイとは心のつながり、すなわち生命のつながりを意識することなのではないかと思う。
LEARNJAPANのオンライン歴史教室で、日本人が大事にしていたことを学んでみませんか?2016年9月25日(日)からの開校です。
コメント