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第6回歴史教室 邪馬台国の女王卑弥呼

歴史教室

こんにちは。

今日は第6回歴史授業についてのご報告です。

今回は「邪馬台国の女王、卑弥呼」について勉強しました。卑弥呼は、「小学校学習指導要領」の42人の歴史人物の一人なので、本当にいたかどうか、、という謎もまだまだいっぱいありますが、この日は一時間かけて勉強しました。

まず、「魏志倭人伝」の写本コピーから「卑弥呼」を探すことから始め、どこどこどこ????と、何回卑弥呼という名前がでてきたか、みんなで必死になって数えました。

(魏志倭人伝とは、陳寿(鎮守)という人が書いた「三国志」の中の「魏志」の中の「偉人伝」なのですが、この「陳寿」という人は一度もそのころの日本(つまり邪馬台国)に来ていません。晋の士官だった陳寿は倭国に派遣された魏使の報告記録などを読んだり人から聞いたりして邪馬台国の様子を知ったのではないかと考えられています。)

さあ、、いくつ、卑弥呼という名前が出てきたでしょうか?奴国王の時代から200年経った、卑弥呼の時代には中華柵封体制から抜け出すことはできたのでしょうか?

前回の「奴国」から、あまりよい感じのしない漢字をつけられたように、「卑弥呼」や「邪馬台国」という漢字についてはどうでしょうか?卑弥呼も、「金印」をもらったのでしょうか?

魏志倭人伝にはこの答えが書いてあります。

 

卑弥呼のいた弥生時代は、米つくりの始まりから村作りが生まれ、小さな村から大きな村へと発展していき、小さな国がいくつも出てきて、たぶん、、戦争や交渉があって一つにまとまっていった時代だということがわかります。弥生時代の初め、100-もの国があったのだけど、卑弥呼の時代には国が30くらいになってきているからです。

まだ、それでも小さな国同士が戦っていたのでしょうね。それで大陸の隣の大国(漢や魏)に朝貢していたのでしょう。ということで、日本はまだ一つにまとまってはいなかったようですね。卑弥呼が女王だったころ、邪馬台国は狗奴国という国と戦争をしています。狗奴国には卑弥弓呼(ひみここ)という男の王がいました。三国志には出てくる卑弥呼という存在が、日本建国の歴史書の「日本書紀」「古事記」には全く出てこないことからも、卑弥呼が死んだあと、また争いが起き、壱与が後を継いで反乱がおさまった後もまだ日本としての国はまとまってはいなかったと考えることができるのではないかと思います。

もしかしたら、卑弥呼や壱与の国「邪馬台国」は日本を統一したといわれる神武天皇の敵だったから、日本書記や古事記ではまるっきり無視でのっていなかったのかもしれない、、と想像することや、「邪馬台国」が「やまとこく」、「卑弥呼」が「日の尊(ひのみこと)」と呼ばれていていたのかな?想像できることなど、いろいろな考えが膨らんでいきます。

こちらのサイトで、魏志倭人伝の現代語版が読めます。そして、倭国の風俗などを読むと、

「その風俗は淫らでない」「寿命は、100年、あるいは8,90年くらいである。」「庶民も婦を2、3人持つが、婦人は、淫ではない。やきもちもしない。」「盗みはせず、訴え事は少ない」などと書かれてあり、日本女性として誇らしく思ったのと、寿命が長いのも、訴え事が他の国に比べて少ないのも、こんな昔から変わらないのだなーーと思って面白かったです。

 

さて、次は第7回、いよいよ、大和朝廷の日本建国に入ります!!!

 

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