こんにちはー
前回の投稿から、ずいぶんと間があいてしまいました。ごめんなさーーい。
さて、、第12回のレッスン報告ですよ。題名は「実力でも中国に追いつこう」でした。
さて、、第11回までの授業をおさらいしてみましょう。
第9回目の授業で、聖徳太子が登場してから、日本が古代から比べて、どのように変わってきたかおぼえていますかーーーー??
。
。ちくたくちくたく。。。。。。。。
。
。
はい、、ではでは、、↓をよんでくださいな。
「我が国の神々を幹として、仏教を枝として伸ばし、日本を豊かな国にしていこう」
1.国づくりの大方針「外国文化の良さに学び、日本文化の良さを守る」 😉
17条の憲法を作り、
2.天皇中心に一つにまとまる国 😀
中華冊封体制からの自立
3.隋のような大国とも、対等に付き合う独立国 😎
でしたね。
そこで、12回目の授業では、
「実力でも中国に追いつこうぜ――」ということで、遣隋使を派遣することに決めたお話しでした。
さて、、遣隋使って、、どうやって選抜されたか知っていましたか????
というか、、考えたことがありましたか?
まあ、、だいたい、「頭の良い人」とか、「語学のできる人(この場合中国語かな?)」とか、「やる気満々の人」とか、そんなふうに漠然と勝手に思っていましたけど、何を基準に選抜されたかを考えたことは私はありませんでした。
そして、これが、12回目の授業の最初の質問でした。
さあ、、考えてください。。
。。。。。。。。。
。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。
答えです。。。。。。。。。。
留学生は、愛国心、意思、努力、知能、体格、そして、
見た目の良さ で選ばれたそうです。。
ききーーーーっ。
愛国心、意思、努力、知能、体格まではわかるけど、「見た目のよさ」。。。。なにこれ??と思いますよねえ。でも、よーーく考えると納得がいくのです。当時日本は「倭奴」と言われて(第5回弥生時代の勉強を思い出してください。)小さく貧弱な人たちだと(私は小さい人が貧弱だといっているのではありませんので、あしからず)ばかにされていたらしいので、そういう先入観を脱ぎ払うために「見た目」も重視したということなのでしょう。ということで、ここでいう、「見た目」というのは、「堂々」としたことをいうのではないかな?とおもいます。小さくても、貧弱でも大きくても太っていても、「堂々として、カリスマ性がある人(かな?)」なのではないかなーーと思いました。
これは、いまでもそうですよね。会社の面接でも、学校の面接でも、お見合いでも、なんでも、「堂々」としている人は、魅力的ですからね。
こうして、、600年から始まった遣隋使の派遣は、およそ2年に一回くらい次々に送られました。
ところが、612年の第6回で遣隋使の派遣は終わりになってしまったのです。
どうしてでしょうか?
。。。。。。。。。。。。。。
それは、、大国、隋がわずか、40年で滅びてしまったからなのです。
でも、そのあと、唐になってからは、10年に1回の割合で、今度は遣唐使を送り始めたのでした。こうして、聖徳太子が亡くなった後も、中国に留学生を送り、いろいろなことを学んだのです。また、日本から中国にいったように、大陸から日本にきて日本人になった人(帰化人といいます。)もたくさんいます。大和朝廷は、彼らの持っている進んだ技術や能力も差別なく、日本の国つくりのために活かしたということです。
また、隋が戦いに敗れ滅んでいき、唐が成立していく過程を自分たちの目でしっかりと確かめて、日本という国がどのような形で成立することがよいかをいろいろと考えた遣隋使たちがいました。
この⇧の部分はとても大切なので覚えておいてください。
(第13回の授業で大化の改新を勉強するときに出てきます。)
さて、、もう一度、斎藤先生のプリントでまとめます。
⇧の聖徳太子の大方針は、後々まで(今もですね!!)続くことになります。特に、260年近く続いた江戸時代から明治に変わった時の明治維新のときにも、この大方針が生かされていることに気づくことでしょう。
最後に、、、皆さんは聖徳太子が建てたお寺を知っていますか???
そうでーーす。
法隆寺です・
このお寺は「あること」でとても有名なのです。なんだかお分かりですか?
「木造建築としては、世界で一番古いのです。」
世界中にある建物で古いものはいっぱいありますが、木造建築では法隆寺が一番古いのです。
ちなみに、ヨーロッパで探しましたが、イギリスのエセックスにあるグリーンステッドにあるセントアンドリュー教会とのことです。これはだいたい、1053 +10–55 yearsに建てられたものだそうです。
ということで、1400年もの間、地震で倒れたり、火事で燃えたり、戦国時代に破壊されたりしなかったことが奇跡に近いのですね。薬師寺は戦国時代に戦火で東塔を抜かしてすべて燃えてしまったのですから。。。
そこで、
斎藤先生は生徒さんみんなに質問しました。
「どうして、法隆寺は1000年以上も残ったのでしょうか?」
色々な意見がでましたが、答えというのはありません。
想像するしかないのですね。
でも、、答えはないけれども、とても考えさせ得られる質問でした。
どうしてかというと、この質問に答えようと一生懸命に考えれば考えるほど、「1000年以上も残っていたことのすごさが、実感としてわいて来て、「聖徳太子」という人をあの時代の人たちがどれほど尊敬していたということを認識せざるを得ないのです。
法隆寺が1000年以上もの長い間を火災などの被害から逃れてきたのには、もしかして、ただラッキーだっただけかもしれませんが、聖徳太子の建てた「法隆寺」の大事さを人々が重みをもって受け止めていたからこそ、人々はその思いを引き継いで大切に残そうと努力をしてきた結果、目に見えない何か、人の力を越えて何かがが守っていたのではないかなーーと考えることもできますよね。
晩年の聖徳太子は本を書いて過ごしました。政治家であってけれども、学者でもあった聖徳太子は日本の伝統のために、歴史の研究をつづけ、「天皇記」と「国記」を書きました。(これは残念ながら焼けてしまうのですが)
これは、法隆寺の中心の釈迦三尊像です。この後ろには、「いま仏におたのみするために、太子と同じ大きさの仏像をおつくりしました。どうか私たちの願いを聞き届け、太子の病気を治してください。もし、寿命というのなら、どうか太子を仏の国にお召しください。」と人々が聖徳太子の回復を願う祈りが書かれています。
また、日本書紀にも、聖徳太子がお亡くなりになった時の、人々の悲しみの言葉が書かれています。
斎藤先生が聖徳太子の授業を、時間をかけて進めたのは、日本の在り方の基礎を作った人だからだと思います。聖徳太子が、どんなことを大事にしてきたのか、どんな考えをしてきたのかを考えると、江戸時代から明治にかけての江戸無血開放など、摩訶不思議なことが納得できてしまうのです。
これで第9回の登場から始まった、聖徳太子の授業は終わりますが、聖徳太子の授業はこれからの授業の軸になっていくことは間違いなしですね!!
さて、話は戻りますが、法隆寺の大修理と、世界文化遺産にもなっている薬師寺の東塔、西塔の再建をした時の棟梁、宮大工の西岡常一さんのユーチューブで第12回のお話を終わりたいと思います。
法隆寺は、世界最古の木造建築なのだけど、そうはいってみても、こういう宮大工さんたちのおかげで、私たち日本人は「法隆寺って世界最古の木造建築なんだよー」と言えることも胸に止めておきたいです。
Learn Japanの歴史教室は、まだまだ生徒さまを募集しています。
途中参加大歓迎の、4週間無料体験実地中なので、どうぞふるってご参加くださいませ。
それではまたーー
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